フランス語 アン

フランス🇫🇷 という響きに憧れ、ベルサイユのばらの世界に憧れ。。。

 

当然、大学の第二外国語はフランス語を選択。

ワクワクして最初の授業。

 

年取った先生が、ボソボソ講義する。

 

私たち初めてフランス語にふれる一年生が買うよう指定されたのは、その先生が書いた教科書。

 

それは、大学ではよくある話かもしれない。

 

けれど、それは、フランス語教師のために書かれた、教えるべき内容を箇条書きにしたような、なんの説明もない、ペラペラの冊子だった。

それについてボソボソ講義されて、前期が終わってしまった。何もわからないし、何も楽しくもない。

それが、大学1年のフランス語との出会いだった。

 

一生背負う大罪

お題「わたしの宝物」

 

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ハンガリーの国立名窯「ヘレンド」。特徴あるシノワズリシリーズは人気ですが、その中でも手描き難易度最上級とされるキュバッシュ(CU)。渦巻文様が特徴的で、マイセンのヘロルトが1700年代に発案したシノワズリ文様をヘレンドが約100年後に独自のタッチで再現したものです。そのマイセンの元になったのが、フィッシャー。フィッシャーの地紋のように見える手描きの渦巻文様が、ヘレンドと出会って、エレガントなシノワズリとして洗練されたものとなって完成されました。フィッシャー時代の、模様が整いすぎない、手描きであることを確かに見せてくれる一つ一つ描かれた渦巻。制作時間と手間を思うと、気が遠くなるような繊細さに、それが200年ほど経って、私の手元に来たことに、ただただ感動。陶磁器は専門ではないけれども、その模様の繊細さ、数百年前の熟練職人の素晴らしい手描きの線に「時」を感じ、人類の宝を預かった気持ちでした。私は、少しの間この宝をお預かりして、また次のどなたかが、さらに次の方へと伝えていくのです。


マイセンの18世紀のアンティークやセーブルの方が、確かにはるかに高価ですが、それは、そういうもののマーケットが確立しているため。先人の「手」を確かに感じられるこの作品の方が、より貴重に感じました。

クリスティーズのオークションで購入した、高かったアンティークのマイセンよりも、私にとってはとって、はるかに貴重なもので、ショーケースの一番上に飾っていました。

 

その頃は、補助金事業との関係で、もう一つ広いアパルトマンを借り、さらに事務所も借りていたため、このアパルトマンを日本人に短期貸することに。フリーペーパーにアノンスを掲載したら、偶然同じ大学の女子学生、つまり後輩がコンタクトしてきました。同窓生なら、何かと安心できるので、彼女に貸すことを決定。連絡を取り合い、パリに来た彼女に鍵を渡し、彼女のパリ滞在が始まりました。同窓生ということで信頼していたのですが、時々「?」と思うことはありました。数日が過ぎたある朝、彼女から電話がかかってきました。?? 動転しているみたいで、何を言っているのかすぐにはわからない。何回か繰り返し聞いて、だんだんわかってきました。

夜、酔っ払って帰ってきて、ショーケースにぶつかり、陶磁器を割ってしまったというのです。一応、手前の方に、万が一割れてしまってもよいような、真贋不確かなものを置いてました。クリスティーズサザビーズなどしっかりした出所のものは奥の方。

何が割れたのかはわからないので、とりあえずケガがないことを確認して、アパルトマンに向かいます。到着すると、若干青ざめた感じの彼女。日焼け肌なのでよくわかりませんが、雰囲気的に青ざめている感じなのは伝わってきます。

「本当に申し訳ありません。。。😰

酔っ払って帰ってきて、フラフラしてて。。😰

 

小さい声でそう謝罪と釈明する彼女の体がどいて見えたのは…。。!
おびただしい量の割れた陶磁器達‼️‼️😱😱

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‼️あまりのことに声が出ない😰😰

クリスティーズのオークションで買った18世紀のセーブルやマイセン、ハンガリーで買った大量のヘレンド達、eBay で買った怪しいマイセンアンティーク、ヘレンドのヴィンテージ品...全てが割れてしまっていました。金継ぎで直せないであろうほど多くの破片に粉々になっているものも。人間、ショックが大きすぎると、何も言葉は出てこないものです。

彼女が何か言ってるけど、聞こえない。

私が愛するアンティーク達。私は、それらをほんの一時お預かりしているに過ぎない。二度と「作る」ことはできないのが、アンティーク。今、1ミリも変わらないものを作っても、それは「アンティーク」ではない。ここにある大半は、割れてしまっても、まだ許せるアンティークのコピー品。だけれども、「本物の」貴重なアンティークも数点ある。それらも見事に割れてしまっていた。「アンティーク」に従事する者」として、なんてことをしてしまったのだろう?形あるものはいつか失くなる。それは事実。けれども、その時を早めてしまったのは、私。その事実が、私を苦しめる。心臓が痛くなるぐらい。

もう、アンティークを扱う「資格」がないかもしれない。頭がグルグルして、ちっとも考えることができない。彼女がパクパクと口を動かして何か言っている。

「……クレジットカードに保険がついてるので、…。」

保険?それが何になると?現代のものなら、その対価をもらい、書い直せばいいかもしれない。でも、アンティークは、書い直せない。作り直せない。私達の祖先が心を込めて作ったものを、壊してしまった。破壊してしまった。アンティークを専門にし、その価値がわかっているのに、正しい扱い方をしなかった。これは、罪だ。大罪だ。この思いは、時間が経つにつれ心に鉛のように重くのしかかり、剣のように鋭く心を刺す。ショックで放心状態。

交通事故なども、事故のショックは、後から来るそうだ。同じ。一応は、彼女がケガしておらず、eBay で仕入れた「なんちゃって」アンティークは、まあ、いい。光景としてはショックだけど、eBayものは、怪しいものが多かったので、悲しさ半減。だけど、サザビーズやクリスティーズなどの「正しい」オークションで仕入れたもの、このヘレンドのオリジナルだけは、もうどうしようもない。私は、一時預かっているだけで、私の次の人にお渡しするべきものなのに、壊してしまった。製造することはできないアンティーク。壊してしまったら、もうそれまで。こんな罪を犯してしまった私に、アンティークを扱う資格はあるのだろうか?その夜は、なかなか寝付けなかった。

それから20年ぐらいたった今でも、この時の記憶は、全く薄れない。私の罪は消えないし、償えるのか、償えているのかどうかも、よくわからない。

ルーブル美術館が私のものだった時

[http://blog.hatena.ne.jp/-/odai/26006613550729316:title=お題「わたしの宝物」

 

宝「モノ」と言われると難しい。「モノ」は、失くなる。壊れる場合もある。「モノ」が「物」じゃなくてよいのなら、それは「ルーブル美術館が私のものだった『時』」。フランスの18世紀の家具についての論文を書いていたとき、取り扱っている家具職人の手による家具が、ルーブル美術館にあったけれども、一般見学者は、柵の手前から、はるかかなたのその家具を一応は見ることができるだけ。ディテールなんか全然わからない。その家具職人の作の18世紀の本物と、19世紀になって作られたコピー・模倣品との比較について論文を書いていた私は、どうしても、そのルーブルが所蔵しているその家具を見たかった。アンティークギャラリーで展示販売されているものは、修復されたものばかりで、金メッキはピカピカなものばかりだったから。

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家具部門のディレクターは、18世紀の家具のセクションにあるそのコモードのところまで連れてきてくれると、

「じゃ、後ほど。」

と言って、去っていなくなってしまった‼️

 

え?ここに私一人❓ 周りには、貴重な18世紀の家具や装飾品がゴロゴロ。

もし、私が躓いて、破損しちゃったら、どうするのだろう??人類の貴重な宝といえるこれらの物を?

そんな恐ろしいこと考えただけでも、ドキドキ💓してしまう。私が何か盗んでいったら、どうするのかしら?? 家具は大きいから無理だけど、その部品とか?モナリザみたいな金額のものではないけれど、一つ数百万円、一千万超えるようなものもある。考えただけでも、クラクラする。😵‍💫

至福とクラクラを行ったり来たりしながら、ドキドキの一時は終わった。もとより、そう大して調べることはない。自分の目で見て、確認することが大切だったのだから。

広い空間にコモードと私2人ぼっち。十分に堪能した至福の時(とき)でした。

犬と猫なのに、仲良し❣️

お題「ペットを紹介します」

物心ついた時から、常にペットがいた。最初は日本犬のキク。小さい頃だったので、記憶はあまりない。その次に来たのは、どうも父が知り合いに頼まれて引き取ったボクサー犬のゴン。すでに大きくて、小さい子供には怖くて、あまり近寄らなかった。今にして思えば、かわいそうだった。そして次は、ペットショップで一目惚れしたパンダウサギ🐇🐼。ウサギだけど、パンダみたいに白黒。だけど、ウサギは犬や猫みたいな反応があるわけじゃないから、つまらなくなっちゃって、すぐにちゃんとお世話しなくなってしまった。そして、弱い草食動物のウサギは、夏の暑さにもやられて死んでしまった。申し訳なかったと思う…。

それからしばらく、うちにはペットがいなかった。あるとき、近所の同じ子ども会?の方のお宅に。そこで生まれて初めて目にしたのが、シャム猫🐈だった。数匹飼ってらっしゃって、たくさんいるから余計にかわいく見えるのか、もう一目惚れ😍😍

それまで、周りにネコを飼ってる友人や親族はいなかったし、シャム猫も目にしたことはなかった。

昔から、自分の年齢の友達よりも、オトナと遊ぶのが好きな私は、猫会いたさに、一人でも遊びに行っていた。よく考えたら、ご迷惑だったかもしれないけど。

しばらくして、父が知り合いか知り合いのブリーダーさんに犬をもらいに?買いに?行くことになった。あれだけ猫、猫、とおねだりしている娘を差し置いて、自分だけ犬を手に入れるのがかわいそうと思ったのか、犬をもらいに行って、車に犬を乗せたまま、ペットショップへ。美しいブルーの瞳のシャム猫を買ってくれた!車の中で仔犬と仔猫はご対面。ケンカをすることもなく、くっついていた。あたかも、親兄弟や仲間と離れた心細さを癒すように。

結局、犬が猫を追いかけて、仲が悪そうに見えるのは、後天的なもの。犬の縄張りに、猫が勝手に入ってくるからだったのです。

猫は、その美しいブルーの瞳が宝石のようで、サファイア💎みたいだけれど、サファイアという名前は、なんだか硬くて男っぽいと思ったので、サファイアと並ぶ宝石の「ルビー」という名前に。

2匹を、たまにお庭に放すけれども、ほぼ室内で飼い、夜はルビーちゃんと寝る。大人になってアレルギーテストを受けたら、犬や猫の毛に対するアレルギーがあると出てびっくりしたけれども、当時何も問題を感じなかった。シャム猫で、毛が短いせいもあるかもしれない。

よく鳴くから「ベル」と名付けたシェルティーの犬は、血統書付きというだけでなく、とても美しい犬だった。働きざかりの父は忙しいし、母もピアノやハープのレッスンと家事で忙しい。弟は、外で遊び回ってる年齢。それで、私がお散歩させることが多かったと思う。今みたいに、フンの始末が厳格でない頃でした。

とても可愛がっていても、大学進学で家を離れることに。名古屋が好きじゃなかったし、標準サイズじゃない私には、色々不便だったけれども、東京は大きい人がたくさんいるから、心地よい。もちろん大学生活は、それまでと違って、ぐっと世界が広がるから、楽しい。授業にバイトに、サークル。さして帰省しないといけない理由もなかったので、全然帰らなかった。もちろん、1年に1回は帰っていて、その時には猫のルビーちゃんと、シェルティーのベルには会っていたけど。

大学生活を謳歌していたある日、母から電話があった。ベルちゃんの様子がおかしい、と。と言われても、獣医ではないし、どうしようもない。心配しながらも、今みたいにスマホがあるわけでもない。ただ心配しながら、心の中で祈るだけ。2、3日後、ベルちゃんが死んだと連絡があった。ショック❗️同じく私に2年遅れで大学生となって上京していた弟と一緒に、その日車で深夜帰ることにした。弟はまだ免許取ってなかったから、私が運転。その頃は、まだ高速を飛ばすことができた。350kmぐらい。通常だったら4時間半ぐらいかかる道のりを、どれぐらいで着いたかは覚えてない。暑さで死体が腐らないようにと、氷でところどころ冷やしてあった。柔らかい毛はそのままだけど、もう体は硬くなっていた。悲しいけれど、突然だからか、ずっと会ってなかったからか、涙は出なかった。

ベルちゃんのお葬式をして、家族で裏庭に埋めてあげた。ずっと会ってなくて、ごめんね。。ベルは、10年ちょっと生きたことになる。今でも、我が家で一番美しかった犬。猫のルビーちゃんと一緒に育って、気の強いルビーちゃんの面倒をみたり、若干振り回されていた感は否めないけれど、きっときっと一匹でいるより幸せだったに違いない。。。

 

私が大学を卒業し、就職し、すぐに退職してヨーロッパ留学で移住。ローマ、ロンドン、パリ、モナコ、パリと移動し、ようやくパリに落ち着いた。次の年に何をしてるか、どうしてるか、どこにいるのかわからない、予測のつかない状況だから、ペットどころではない。ヨーロッパが楽しすぎて、アンティーク家具を学んだり、オークションに携わるのが楽しくて、全然帰らなかった。小学生の頃から求めていたものにやっと出会えたわけだから。私の熱意と、業界でも有名な彼と付き合うことで、色々な機会が与えてもらえた。そうしてるうちに、彼が専門家として顧問をつとめるギャラリーが、アンティーク展に出展することになり、私も手伝うことになった。いや、むしろ手伝わせてもらえる、といった方がいいかも?

広い会場の中の、ギャラリーの専用スタンドで、お客様のご案内。カタログをお渡ししたり、補佐的なお仕事。それでも超一流のアンティークギャラリーで働く経験ができて、めちゃくちゃうれしい!滞在許可証の問題で、フランス人のようには働けないから、貴重な機会でもある。ちょっぴり大学時代のイベントコンパニオンのバイトを思い出しつつ、素敵に装飾されたブースで、毎日頑張っていた。ランチは、気分転換に外のカフェやレストランへ。

グラン・パレが会場だったから、徒歩圏内のカフェへ。シャンゼリゼまで行っちゃたら、ちょっと遠いし、混んでて遅くなっちゃうかも。あ!そうだ!あそこにしよう!パリらしいカフェとはちょっと違う、クレージュ・カフェ。ファッションブランドのクレージュがやってるカフェ。典型的なカフェと違って、白を基調にフューチャリスクな近未来感漂う外装と内装。窓際のテーブルに背の高い椅子。外を眺められるこの席にしようっと。

サンドイッチと飲み物を頼んで待つ。携帯が鳴った。日本の母からだ💕

「今ね〜、ちょうどランチでクレージュのカフェに来たところ♪」

返答がない。

なんだか雰囲気が変。

「ルビーちゃんがね…死んじゃった。。。

‼️

‼️

言葉を理解するのに時間がかかった。

「一昨日から調子悪くてね、獣医さんのところに連れて行こうとしたんだけど…。。

間に合わなかった。。最後お薬飲ませようとしたら、もういいって感じで、こっちをちょっとバカにしたような目で見て。。涙声の母。

周りの雑音が止まった。周りの色が消えた。

テレビや映画でよくこういうカメラワークや編集を目にするけれど、まさにその通り。自分だけがこの世界にいるけど、切り離されたような、そんな感じ。どれぐらいそうしてたかわからない。どうやってお金を払ったかも覚えてない。覚えているのは、ちょっと雰囲気がおかしい私に気づいたギャラリーのオーナーが、「大丈夫?なんかあった?」と声をかけてくれたこと。それに対して、私は、「姉妹と、親友を失った。。」と答え、オーナーは、「え〜?ホント〜?」と意に介さない感じで答え、「猫が死んじゃったんです。」と答えたら、「な〜んだ!」と言われた。もちろん、人が亡くなるのとは違う。でも、ペットを大切に飼ってる人にはわかるでしょう。ましてや、子ども時代のほとんどを一緒に過ごし、一緒に寝ていた猫である。ケッという感じで言われても、悲しさは減らない。泣きそうな気持ちを抑え、持ち場に戻る。彼もお客さんとのランチから戻ってきた。彼も私の様子に気づいて、「なんかあった?」

「猫が死んじゃった...」

「繊細」なタイプではない彼。泣き出しそうな顔の私を見て、「ギャハハハ!」という感じ。

「今度、僕が猫買ってあげるよ!」😹と言っている。半分冗談とわかっていても、そんなちょっとした言葉が、こんなときはうれしい。もちろん、猫は買ってもらってない 笑。

それから、ずっとルビーちゃんは、事あるごとに、私の中で行き続けている。毛皮のオートクチュールブランドを作ったとき、そのブランド名は、ルビーをフランス語にしたRubis. メールアドレスも。会社名にしたこともあった。Rubis international.

ルビスインターナショナル。

本当に、彼女の子どもを育てなかったことを後悔している。今、猫みたいな室内犬を飼っていて、重さも似たような感じ。すごく可愛いけれども、自分が選んだわけではなく、私よりも先にこの家にいたし、当然名前も私がつけたわけではない。何より、私が小学生ではないから、同じ気持ちにはならないだろう。ルビー2世として、シャム猫を飼いたいか? よくわからない。今いる猫みたいなミニチュアダックスで手一杯だから❣️

 

 

 

 

 

涙のお馬さん

今週のお題「好きなスポーツ」

 

その昔は、日本でも戦争や移動に使われていた馬。明治維新で武士がいなくなってからも、そこそこ馬は存在したけれども、近代化が進み、自動車が出現すると、日本ではあっという間に馬や馬車に乗らなくなってしまったので、乗馬もすっかり遠い世界の出来事になってしまった。

でも、西洋では、今でも身近な生活の中にあるものである。フランスやイギリスでは、騎馬警官が普通にパリやロンドンの街中にいる。アメリカでも、牧場や馬は身近な存在。高校生のときに、アメリカにホームステイをする機会を得た。まだ見ぬホストファミリーに向けたお手紙の中で、どこかの例文に載っていたこともあって、「乗馬がしたい」と書いた。

このプログラムで行くところは、都会のボストン。中西部の牧場ではない。それでも、馬を飼っているファミリーがいて、そこに決まった。お父さんは、なんとトルコからの元留学生。お母さんは、すらっとしてて、ずんぐりした体型のお父さんより背が高く、日本でそんな夫婦を見たことがなかったから、びっくりしてしまった。姉と弟の子どもがいて、姉が同じぐらいの年だった。彼女は、馬の大会でいくつも入賞していて、きれいなリボンの表彰バッジをいくつも飾っていた。

日本より湿度が低いといえど、夏。馬に乗るのは、早朝。早起きして、英会話レッスンが始まる前に一乗り。まだ寒いぐらいの気温。くしゃみと鼻水が出る。その時は、早朝の涼しすぎる低い気温のせいだと思ってた。

だんだん馬に慣れてきて、上手に乗れるようになった。

素敵な乗馬体験で、すっかり馬好きになった私。けれども、日本で、普通の一般家庭にとっては、乗馬は遠い存在。県立の高校に馬術部などあるわけなく、そのままになっていた。大学生になって、馬術部に入部!住んでるところからも大学からも遠いけれども、大学の馬場が、調布市にあった。早朝練習に間に合うよう、まだ寒い中家を出る。馬場について着替え。準備体操、ウォーミングアップで乗馬。くしゃみや鼻水が出るけど、朝寒いからだと思っていた。私大では厩舎の掃除などは専門の人がやったりするけど、国立大学の私達は、自分達で掃除しないといけない。部室は決してきれいじゃない。先輩達は、留年してる人ばかり。なんだかイメージが違って、楽しくなくて、しばらくして辞めてしまった。

それから、大学生としての新生活が忙しいながらも楽しく、家庭教師などのバイトも忙しく、スポーツとしてはスキーにお金を使うので、馬術に時間とお金を割く余裕や関心がなくなった。こうして、ヨーロッパに留学して、公園で乗馬している人達を見るまで、ほとんど心の奥底にしまわれたままだった。

ヨーロッパでは、日本と違って、競馬がおしゃれな上流階級の社交行事だったりする。イギリスのアスコット、パリのエルメス杯などその奇抜なお帽子などのファッションでも有名。また、本当の貴族のスポーツとして、ポロ競技がある。アメリカとは違う、上流階級のもの。そして、シャンティー城を始めとして、馬のショーを行ってるところも多い。ある時、フランス文化の一端を垣間見るということで、馬のショーを見に行った。城の中の競技場は、馬が走る所に藁が敷かれ、砂煙が舞っている。ショーが始まるのを待っていると、くしゃみが立て続けに。涙も出てきて、目がショボショボ。「どうしたんですか?目が真っ赤ですよ!」と言われる頃には、理解していた。アレルギーだ❣️ 藁なのか、馬の毛なのか。過去の乗馬経験から推測できるのは、馬の毛。私は、乗馬できない体質だったのです!なんと残念なことでしょう!あんな気持ちのいい乗馬を、楽しむことができないなんて!ヨーロッパでも、マスクが普通になった今なら、マスクで乗馬に再挑戦できるかも?

 

スキーへの片想い。20代に一度振られた。30代は、失恋の痛手を背負いつつ。アラフォーで、やっと両思いに❣️

今週のお題「好きなスポーツ」

小学生の頃、母が連れていってくれたYMCAのファミリースキーキャンプ。年下の子の面倒を押し付けられたり、大変なことはたくさんあったのに、雪もそのスポーツもとても気に入って、それから毎シーズン連れて行ってもらった。柔道、野球、ゴルフとどれもセミプロな腕前の父も、スキーはさっぱりで、もっぱら母に教えてもらった。

小学生の子にとって、親の言うことは、絶対的である。ましてや、新しいスポーツのこと。盲目的に信じる。母が言った「大分滑れるようになったから、後は滑り込んで慣れるだけね!」

この一言が、その後の私の人生に重く辛くのしかかることになるとは、その時思いもせず、言われた通り、どんどん上の方まで行くリフトに1人で乗って滑りに行くようになった。カッコよく、シャッ、シャッ、シャッ、とは滑って降りて来られないけれど、スピードをコントロールすること、止まること、は問題なくできるので、どんな急な斜度の斜面も、時間をかければ滑って降りてこられるようになっていった。半分は度胸で滑っているようなものである。とにかくエッジを立てて、スピードを減速して、ターンを繰り返していけば、斜面を降りられた。一体いつになったら、シャッ、シャッ、シャッ、と滑れるようになるのかな、と思いながらも、「あとは滑り込めばいい」という言葉を盲目的に信じて、自己流スキーを続けた。キャンプは割高なこともあって、もっぱら家族スキー。たまに学校に募集が来たスキー教室に参加したり。そこでは、上級者の部類だった。

高校卒業時には、仲良しグループの同級生と卒業旅行としてスキーに行った。初心者の子もいて、その中では、ダントツで私が上手だった。

 

なので、けっこうスキーが滑れると思い込んで大学に入学した。サークル説明会で、競技スキーと基礎スキーというのがあることを知り、別にポールでレース競技や競走をしたいわけではないから、基礎スキーの真面目なサークルに入った。冬以外は何やるかと思ったら、陸上でトレーニング。私がスキー好きなのは、暑くないから。陸上トレーニングは、暑くなるからやりたくない。お酒も弱いので、その後の居酒屋にも興味がない。冬までほとんど参加せず, たまにトレーニングじゃない時に参加するのみだった。

スキー道具の予約は、夏に行われる。行くべきお店を紹介され、スキー板を買いに行った。

きゃー❣️ カワイイピンク❣️ トップが黄色の透明。ベースが蛍光色っぽいピンク❣️その色の組み合わせと、先端の透明部分に一目惚れ。一番高いモデルだけど、物や道具は高い方がいいに決まってる!というわけで、それを購入予約した。ウェアも、キラキラの全日本モデル。家庭教師のバイトでかなり稼いでいたし、いいものを揃えたかった。ストックや帽子、手袋も色を合わせて購入。まずは形から、ファッションから、という感じの準備は整った。

冬になり、サークルの合宿があった。わが大学らしい、ボロ宿。飲んでばかりの夜。日中は、先輩が先生となってスキー講習。

ここでも、私の高いスキー板は話題になった。ちょっぴり得意で、講習を受ける。新しいスキー板は、まだ慣れてなくて、長くて固い。すごくターンしにくくて、曲がるのに一生懸命になった。それ「も」いけなかったのか、あるいは、そもそも、もともとターンをちゃんとわかってなかったのか、体で回す癖がついてしまった。「ローテーション」といわれる癖である。先輩に見てもらう度に、「ローテーションしている」と指摘される。でも、誰も直し方をちゃんと教えてくれない。「どこが」「どう」悪いのか指示してくれないので、直しようがないし、練習しようがない。自分でも、何かが悪いという気はするけれども、何がどう悪いのかはわからない。わからないから、練習しようがない。そのうち、大学生になってこのサークル入ってからスキーを始めた男子に抜かれていく。

 

全然楽しくなくなった。お酒も量を飲みたいわけではないから、何一つ面白くない。質素な旅館なので、宿の楽しみもない。あんなにスキーが好きだったのに、全くつまらなくなった。どちらの方を向いた努力をしていいかわからず、悲しかった。

それからの私は、もがいた。サークルに活路を見出せなくて、岩手県のスキー場が始めた、オーストリアのメソッドで教えてくれて、ホテルと食事が付いて、1人で行っても相部屋にしてくれる、スキーバスで行くプログラム。日本で主流の、日本だけでしか通用しない検定ではなく、世界で採用されているスキーテストを採用していた。行ってみたら、ホテルはきれい、食事もホテルのお料理で美味しい、ドイツワインまで頼めちゃう、来ている人も、年上の女性でいい人が多い。2、3回ここに参加した。レッスンでは、先生に言われたことが私だけできて褒められたりしたけれども、一足飛びに上手くなるわけはなく、「言われたことはできる」というだけの滑りにとどまっていた。それに、ゆるやかなターンの練習ばかりで、ちっとも自分が目指しているターンは教えてもらえなかった。結局よくわからないまま、2シーズンぐらい終わった。そうして、大学卒業、夏に外資系に入社。問題があって秋には退社。この冬はスキーどころではなく、人生立て直し計画。春からヨーロッパ留学決定。秋からロンドンへ、とその後数年にわたる留学生生活が始まった。

欧米では、新学期は9月。留学生の私は、授業について行くのに必死な上に、休みには、フラットの引っ越しをしたり、課題のレポートを書いたり、忙しい。一度、フィレンツェのイタリア人の友達に連れられてスキーに行ったけど、ローカルな小さなスキー場で、半日滑っただけ。フランス人の彼は、リヨンというみんながスキーする地域出身だけど、小さい頃にスキーで骨折して以来スキーしなくなってしまっていた。その後も、スキー好きな彼には出会わず、2、3度スキーに行く機会はあったものの、ブランクを取り戻し、滑れるようになっては、もう出発の日、という感じで、「上達」はしなかった。わずかに「雪との友情」が続いていたのみである。転機が訪れたのは、伝統工芸の仕事をして、日本にちょくちょく来るようになってから。

京都でご縁があって知り合った方が、スキーのテレビ番組に出演していた方で、スキーのイベントを蔵王で企画したのだ。蔵王樹氷で有名なところで、私も一度行きたいと思っていたので、参加。そこで出会ったのが、そのテレビ番組に出演していたスキー業界で有名な方。その番組の世代とは、ちょっと違い、どれぐらいその方があがめられてるかも知らずに、海外のノリで、北海道に行く時に、北海道にいるその人に、連絡を取った。スキーやお食事を一緒にできればいいな、と思って。そしたらその人は、通常皆さんがお願いしているのと同じように、スキーのレッスンをしてほしいのだと思い込んで、レッスンをしてくれちゃった。1本滑り終わったら、「あ、もうわかった!何が問題かわかった!」 え❓❗️ 問題が❓

大学のサークルでは、多くの先輩が首をかしげて、でもよくわからなかった問題が、わかった?!

「入るという漢字と、人という漢字を意識して滑ってみて!」

なんだかよくわからないけれども、言われたとおりにすると、なんと‼️ 体は回らず、正しくターンできた。「そうそうそう!」と褒められ、めちゃくちゃうれしい❣️ 苦節?年❣️ ようやく「正しい」ターンがわかったのだった。

あとは、まさに「滑り込む」だけ。ヨーロッパだけではなく、北米、なんと南米、オーストラリア、ニュージーランド、と世界中雪あるところはどこへでも!という感じで雪を求める旅に出るようになったのです。思うように滑れなくとも、1人で急斜面に行っていた少女時代のお陰で、雪とは友達❣️ついにはスキー板を製作するようにまでなったのでした。

サンジェルマンの調香師4

もう一緒には住めないから、今月中にアパート見つけて、出ていって欲しいんだ。

いきなりの宣告。西洋人は、シビア。関係が終わったら、即刻冷たい。しかも、私のフランス語は、まだ全然で、アパートを自分で借りるなんてできそうもない。

ブルーな気分で、パリ在住日本人向けフリーペーパーを見ていると、2、3日系の不動産屋さんの広告を見つけた。電話できいてみる。みんな、駐在員用の大きくて高い物件しかない。絶望的な気分で、ページをめくる。あ‼️日本でも知ってたエイブルエイブル不動産の広告を発見する。パリにも支店があるみたい。オペラ座の近く。電話して、学生向け物件があるか聞く。「ありますよ。」とのうれしいお返事!

早速お店に資料を見に行くことになった。

善は急げで、早速店舗に伺う。当時のパリのアパルトマンの家賃は、東京と同じ家賃で広さ2倍、つまり東京の半額程度の家賃だった。希望エリア、間取りなどを伝える。すると、

「あ、今まだ工事中だけど、いい物件ありますよ!」と言われた。8区でエリゼ宮の近く。シャンゼリゼも近い。しかも、なんと新築❣️ パリでは新築物件は、ほとんどなく、古い建物がほとんど。私も、無味乾燥な近代的な建物は好きじゃないけど、水回りは新しい方がいい。一応、見学はできるそうなので、お願いした。